本日は、映画の授業。
「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」
何気なしに選んだ映画ですが、塾の先生としては、こういった映画はもう見たくないのです笑
辛い。
つらすぎる笑
こういう王道ストーリーはつらすぎる。
選挙とあいまって辛すぎるのです。
なぜか??
一言でいうならば
「教育」と「自由」についてのお話であります。
主人公ザックは、ダウン症をもつ青年。
彼の夢は、プロレスラーになること。
案の定、周囲の大人たちは言います。
危ない
無理だ
お前にはできない
マルクス(選挙で右だの左だの言われるから、最近、思い出すのです)以来、
教育業界は、「守る」と「縛る」は、紙一重なのであります。
・施設の職員たちは、決して悪人ではありません。
・彼らはザックを守ろうとしている。
でも、その「善意」は、いつの間にか彼の人生の選択肢を削っていきます。
・ここにいなさい
・勝手なことはするな
・夢なんて考えなくていい
「この子のためを思って」という言葉ほど、疑ってかかる必要があるものはないのかもしれないのであります。
王道ですね笑
映画「しあわせの隠れ場所」ぐらい王道です。
旅は「成長のカリキュラム」
ザックは施設を抜け出し、偶然出会ったタイラーと旅に出ます。
川を下り、森を歩き、危険も失敗も、全部自分で引き受ける。
この旅には、
・指導要領
・評価基準
・正解
はありません。
でも確かに、
・自分で決めること
・怒ること
・信じること
・仲間を守ること
といったことが、どんな座学よりも濃密な「学習」だと映画は言ってくるわけです。
王道だから笑
「できない理由」より「やりたい理由」
王道だから、ザックが一度も「特別扱い」されないのです。
タイラーは彼を
助けすぎない。
教えすぎない。
評価しない。
ただ一緒にいる。
この距離感が、ザックを「守られる存在」から「選び、進む存在」へ変えていきます。
人は、能力で成長するのではなく、役割を与えられたときに成長する。
これも王道ですね笑
とはいえ、テイラーを「優しい人」と評するのは違う笑
「テイラーが優しい人」というには、あまりにも映画が見えていないと言いたくなります。
「ザックがテイラーのおかげで成長できた」と書くならば、
中学生達には「なぜザックが成長できたのか?」という視点を書いて欲しいとは思うのです。
あるいは、
ザックとテイラーとエレノアが家族みたいになって良かった。
ならばなんでそうなれたのか??
というところまで書いて欲しいと思うのです。
教育とは「安全な檻」を作ることではない
教育は、失敗させないことではありません。
危険をすべて取り除くことでもありません。
むしろ、
・転ぶかもしれないけど、行ってこい
・失敗しても、戻ってくる場所はある
・自分の人生を生きていい
そう言える大人が、
どれだけそばにいるか。
『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』は、その問いを、押しつけがましくなく、私に投げつけてくるわけですよ。
左翼が衰退しているといわれて、
自民党が圧勝っぽいので
あえて、
書こうと思うのですが、
マルクスが構想したアソシエイトは、
資本や国家に従属しない、自由で対等な個人同士の結合といったことで、
自由をテーマにしているのです。
ソ連や中国がマルクスが描いた世界と違うとするならば、
労働や生産が合意ではなく命令に行われていたところでしょう。
マルクスは、村落共同体や国家主義的集団を理想とはしていないのです。
ではマルクスが実現しようとした社会とは??
その答えはだれも実現できていないし、説明できていない笑
自由な個人が
自発的につながり
役割にも制度にも支配されず
自分の人生を引き受ける社会
なんじゃそら??
一方で、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出します。
近代において、
人は自由になるどころか「規則、資格、評価、組織」に合理的に縛られていく、
とウェーバーは言っています。
そもそもプロテスタントの持つ合理性が資本主義を生み出してきたのだし、
近代国家が生み出した官僚制は、 最も合理的で最も逃れにくい支配を作り出してくれて、
人は意味を求める存在(生きる意味、やりがいなど)ではあるが、「個人の意味」は制度に吸い取られる。
と。
そして、、、ウェーバーも「どう生きるべきか?」については教えてくれません。
左翼が弱いのは、
自由の制度化
について語れないからですよね。
それが人権であったとしても
マイノリティーであったとしても。
です。
あるいは、
マズローの欲求なんちゃらの最上位のことを言ってくるからであります。
マルクスは、
理想を持て
って言ってくるし
ウェーバーは、
幻想を持つな
って言ってくる。
特定の能力を鍛えるならば、
軍隊方式に勝る教育方針はありません。
だが、
Willbeが最低限の規律を守ってくれるならば、
ある程度の自由のもと学習を進めるスタイルなのは
この辺の矛盾に対する私の答えなのだとは思うのです。
ま。
塾が、どれほど理想を語っても
学校制度、内申・評定、入試、偏差値、資格、という抗いようもない巨大な合理化システムの内部にあるので、
小さく
抗うのです。
「自由な学び」「主体的な学習」などと言ったところで、官僚制・評価・競争からは逃げることは出来ないのであります。
映画の授業もその1つ(⋈◍>◡<◍)。✧♡