昨日は映画の授業。
目的は、
①文章を書くことになれる。
②自分の疑問や考えを自由に表現する。
(ストーリーから逸脱しない程度に)
③細かい心理描写や社会的背景が見えるようにする。
です。
昨日の映画は、ボヘミアン・ラプソティでした。
授業では主人公の孤独を3つの視点から解説されておりましたが、そのうちの1つである要素、
・時代は1970年代
・フレディはパキスタンからの移民
という点について中学生が理解することはなかなか難しい気も致します。
私自身も大英帝国が崩壊し、イギリスが不況に陥るなかで自信とプライドを失ったイギリス人たちの状況を想像することはできますが、(なんだか日本に似ていますね)、実感として本当に分かっているのかについては、自信はありません。
しかし、勉強する意義というのは、こういう点にあるのだろうと思います。無知では人の心は推し量れないモノがあります。
個人的には、私が大学生だった頃にはグローバリゼーションとインターネット技術に期待が集まり、世界が小さくなり分かり合えて、平和になるんじゃないかと考える人が多かったように思います。
丁度、WTOといった枠組みが機能しなくなり、ゆるやかな地域連合が期待されていたころです。
あれから20年。
まったく社会が進歩したようには思えません。
一部のお金持ちやサラリーマンたちが海外へ行き、人間と触れて、分かり合えることが出来つつあるのだろうが、割合としてはかなり小さいのだろうと思います。
我々、多くの平民には関係のないことだ。
的な笑
これからさらに技術が加速し、メタバースがよりリアルになれば、本当に人々は”We”の範疇を広げることが出来るのだろうかと考えてしまいます。
とはいえ、
個人的に私が中学生達にやって欲しいことは
自由に、考えて欲しいということです。
大人が求める模範解答ではなく、
社会規範にのっとったようなものでもなく、
純粋な疑問を遠慮なく書いてみて欲しいなと思います。
自分の考えを持つということは、難しいのだけれど、社会でなんとなく正しいとされていることを疑ってみたり、自分の常識とは違う存在に出会ってみたりしながら、「分」を形成してみて欲しいなと思うのです。
本当は、人間にとって大切なことは、単純すぎて、単純すぎるから誰もが実行できないだけなのかもしれないのですが、
多様性のなかで自分の「分」を決めるというのは、自問自答を繰り返していくことがなければ難しいとは思うのです。
多くの子が大学生になれてしまうからこそ、
自分の「分」を知らないまま大学生になってしまうからこそ、
こういう機会をおせっかいにも設けてみています。
自分の意見は、それぞれで良いのだけれど、
「見え方」はズレていてはいけないと思うのです。
あえて苦言をていするならば、
フレディーが、ゲイだったから女装が出来たのかな?と思いました。
と感想を書いた中学生がおりました。
あまりにも感想が幼いし、見えてないことが多いのです。
今はそれでよいのだけれど、彼らが他面的に物事をみれる訓練はしてあげたいのです。