明確にバチっと言葉にできる自信があるわけではないのですが、なんとなく言葉にしてみたかったのでツラツラと書いてみます
個性と調べる学習はインターネットによって矛盾させられる。個性が大事と言われているにも関わらず、調べまくることで自分の意見がなくなっている。
調べる学習。
全てを否定したいわけでもないのですが、中学生や高校生の勉強を見ていて「調べる」学習が考える力を失わせているように思ってしまいます。
分からないことは調べる。
それは確かにその通りなのです。
しかし、調べる前に「仮説を持つ」「自分なりに考えてみる」ことの方がよほど大事なのだろうと思う。
「仮説を持つ」「自分なりに考えてみる」ことなしに調べることは、考える力を失わさせ、自分の意見を持ちにくい土壌を作る。その際たる例が読書感想文や自由研究なのだろう。
おそらく多くの小学生や中学生は、調べるのが先になってします。だから、人の意見や人が考えたことばかり受け入れることになる。そこに当然「疑問」はない。
問題というべきか、
面倒だなと思っていることが2つ。
①社会のスピードが速すぎる。
②知識
①社会のスピードが速すぎる。
社会のスピードが上がっています。
だから「期限」のようなものが必ず付きまといます。
期限に間に合わせるためには「考えている余裕」がない。
または、SNSの隆盛によって「他人の意見を聞くことばかり」になっているのだろうと思う。
他人の意見を参考にした意見は自分の意見ではない。無論、問題意識があって誰かの意見を参考にして、自分の意見にするというプロセスは否定は出来ない。しかし、そこでも「間違ってて良いから自分の意見を持つ」ということが大切なのです。
小学校の先生も中学校の先生もそのようなことは分かっておられます。
②知識
大前提として「話し合っても賢くはなりません」
意見をぶつけあっても賢くはなりません。
人の話を聞かなければなりません。
そして、考えるために、話すためには知識が必要です。または人の話を聞くためには知識がなければなりません。
考えるための言葉が必要なのです。知識がないと考えることは不可能です。矛盾しているようですが仕方ありません。
知識とはなにか?
感じたものである。
感じたものを言葉になおしたもの。
それが「知」なのです。
ではなぜ「知識」は覚えなければならないのか。
人間が数千年間考えてしまったからです。
いま現実の社会で起こっていることを考えようと思うと、数千年かかるのです。故に、「いまここまでは分かってるよ!!」「最低限ここまでわかってるから、この次を考えようね!」と最低限の決められている内容が義務教育の知識なのだろうと思います。
故に、考える学習の名のもとに「いま現実で起こっていること」を考えようとすると「知識」は必要なのです。
「覚える事」
「感じる事」
「考える事」
この3つのバランスが必要です。
えーから覚えろ!!と言われていることを考えても仕方ありません。
調べても仕方ないのです。
考えろ。
何も感じない人たちが何を考えろというのだろうか。
ネットリテラシーという言葉がありますが、知識がないと疑うことも出来ません。
知識は覚えなければなりません。
知識とは固有名詞や定義です。
しかし、考え方や問題は覚えてはいけません。