不安は、
なかなか消えません。
受験前になると急に増えます。
まだ何も起きていないのに、
もう失敗した後のような気分になることもあります。
落ちたらどうしよう。
このままで間に合うのか。
本当にこれでいいのか。
考えれば考えるほど、動けなくなります。
しかし、
その多くはまだ起きていない未来の話です。
個人的に、
「現代文あるある」
などというものを書き始めてしまったため、
3月~6月の時間を使って、
「構造主義」について学び直そうと思っています。
分かってるようで、
説明しようとすると言葉に詰まる
と実感したためです。
(分からないモノを分からない分かっておくことも大事ではあると思います。)
一方で、
ありがたいことに保護者様から
Willbeは『しなやかに生きること』も伝えようとしてくれている
「過去と未来に捉われていると病む」ので「今」を大切にという視点も大賛成です
とのお言葉を頂きました。
「学力上等」
「成績こそ正義」
「数字で人を評価する」
といった世界観の権化「塾」
に片足を突っ込んでいる仕事柄、
そういうことを考えてしまうのであります。
とはいえ、
塾はどこまでいっても
「学力上等」
「成績こそ正義」
「数字で人を評価する」
存在ではありますから、
全面的に私の妄想を押し出すつもりはありません。
授業の中心は、
「学力上等」
「成績こそ正義」
です。
さて、
不安はどこから来るのか
アドラー
心理学者のアルフレッド・アドラーは、
人は「原因」ではなく
「目的」によって行動すると考えました。
この見方に立つと、
不安もまた単なる反応ではなく、
何かしらの意味を持っている可能性がある
と考えられます。
不安は何を守っているのか
「落ちたらどうしよう」という不安の中には、
・期待を裏切りたくない
・評価が崩れるのが怖い
・努力が無意味になるのが怖い
・以下、無限大
といったものが含まれています。
つまり不安は、
未来そのものではなく、
「今の自分や関係を守ろうとしている働き」
と捉えることもできます。
ただ、
ここで話を終えてしまうと、
「不安には意味があるから仕方がない」
というところで止まってしまいます。
しかし現実には、
「意味」だけでは説明しきれない不安があります。
理由ははっきりしない。
それでも確かに存在する不安です。
不安は人間の構造か
実存主義
ここで思い出すのが実存の考え方です。
(不用意に引用する私は、いつか怒られます。)
ジャン=ポール・サルトルは、
「人間は自由である」
と述べました。
ただしこの自由は、
好きなことができるという意味ではなく、
どう生きるかを自分で決めなければならない状態を
指しています。
自由は不安を生む
何を選んでもよい。
しかし、
何を選ぶかは自分の責任になります。
このとき人は安心するのではなく、
むしろ不安を感じます。
なぜなら、
「正解がない」
からです。
ストア派の哲学者セネカは、
人は現実そのものではなく、
それを想像することで苦しんでいる
と考えました。
不安の多くは未来の想像
落ちるかもしれない。
失敗するかもしれない。
評価が下がるかもしれない。
しかしそれはすべて、
まだ起きていない未来です。
つまり、
不安の多くは現実ではなく、
頭の中で作られているものでもあります。
「妄想」は言い過ぎでしょうか。
「今起きている未来」という人もいますよね。
コントロールできるものとできないもの
セネカはさらに、
コントロールできるものに集中するべきだ
と考えました。
結果はコントロールできません。
他人の評価もコントロールできません。
しかし、
今日やるかどうか
目の前の問題に向き合うかどうか
これは選ぶことができます。
ここで、ストア派のセネカを持ち出すと、
少し違和感を覚える方もいるかもしれません。
セネカの言葉は、
現代では自己啓発やビジネス書の文脈
で語られることが多いからです。
解釈の幅が多い言葉ですから、
自己啓発やビジネス書では、
そうすれば成功する!!
「だから頑張れ」
なのです。
しかし、その背景っ( ゚Д゚)
ただし、
セネカは、
ローマ皇帝ネロの側近でした。
(世界史の教科書をどうぞ)
政治の中心に身を置き、
権力のすぐそばで生きていた人物です。
そして最終的には、
皇帝ネロによって自害を命じられています。
セネカは死を受け入れます。
(ローマ時代の価値観解説も必要な気はしますが無視)
きれいな言葉だけでは済まない
この事実を踏まえると、
セネカの言葉を
落ち着いて考えよう
コントロールできることに集中しよう
といった単純な自己啓発としては
捉えることは出来ません。
明るい未来が待っているわけではないのです。
むしろセネカの結末には、
どうしようもない状況の中で、
それでも自分を保とうとした事実
のみ感じることが出来ます。
そういうと
それはそれで
武士道的な美談
に聞こえてしまいますね💦
セネカの言葉の重さ
結果はコントロールできません。
他人もコントロールできません。
運命も同様です。
それでも、
自分の態度だけは選べる
そう言わざるを得ない状況にいた人間の言葉
だということが重要だと私は思っています。
(↑ここ少し日本人っぽいです)
(「西洋と東洋の災害」みたいなテーマあるある笑)
ここで見えてくるのは、
アドラーが示した意味と、
セネカが示した態度の違いです。
不安には意味があります。
しかし、
その意味を理解したからといって、
現実が変わるわけではありません。
アドラーも
「他人を変えることは出来ない」など
言っております。
実存主義
さらに言えば、
どれだけ不安を整理しても、
人は選び続けなければなりません。
そしてその選択には、
常に更なる不安が伴います。
これは消すことができないものです。
現実社会で見えること
実際の現場でも同じです。
不安がなくなってから動く生徒は、
ほとんどいません。
むしろ、
不安を抱えたまま動いた生徒が、
後になって何かできるようになっていた
と気づくことが多いのです。
(しかし、それは大人の傲慢であります。)
(故に、今を生きるのです。)
アドラーは、不安に意味を与えました。
セネカは、不安の中での態度を示しました。
実存の思想は、
不安は消えないものだと指摘しました。
(誤解があるが、まぁ良いです。)
不安はなくなりません。
意味(目的)もあり、
構造的にも避けられないものです。
そして、
その不安の中で態度を選ぶことはできる。
ということです。
ただ、
もう一つ視点があります。
人は、
その不安に向き合い続けるとは限らない。
むしろ多くの場合、
不安から逃れようとします。
ここで思い出したいのが、
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」です。
人は自由であるがゆえに不安になります。
そしてその不安から逃れるために、
自分で選ぶことをやめ、
他人や社会に従うことで安心しようとします。
(私だって思考停止しておきたい)
(私だっていちいちリテラシーなんて考えたくない)
(勉強/教養なんて暇人の所業だろ?)
自分で決めなくていい状態。
誰かが正解を示してくれる状態。
そこに身を置くことで、
不安は一時的に軽くなります。
自由からの逃走とは何か
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、
近代社会の中で人間が
自由を手に入れたにもかかわらず、
その自由に耐えられず、
むしろ自由を手放そうとする
といった逆説を扱った本です。
普通に考えると、
自由が増えることは
良いことです。
自分で生き方を選べる。
職業も思想も進路も、
昔よりは自分で決められる。
身分制度や共同体の拘束からも、
ある程度自由になった。
一見すると、これは前進です。
昔の人は不自由だったが、孤独ではなかった
フロムが見ているのは、
近代以前と近代以後の違いです。
昔の人は、
今ほど自由ではありませんでした。
生まれた共同体の中で生き、
職業も身分も、かなり固定されていた。
宗教や慣習も強く、
個人が勝手に自分の生き方を決める余地
は小さかった。
しかしその代わり、
・自分がどこに属しているのか
・何者なのか
・どう生きるべきなのか
などが、
ある程度あらかじめ与えられていました。
つまり不自由ではあるけれど、
「自分が何者かを規定してくれる枠組み」から
完全には切り離されていなかったのです。
自由というと、
好きなことができる状態
縛られない状態
のように聞こえます。
しかし
フロムが見ている自由は、
もっと重いです。
自由とは、
誰のせいにもできない状態
でもあります。
自分で選ぶ。
その結果も自分で引き受ける。
自分がどう生きるかの根拠を、
自分で作らなければならない。
これはかなり苦しい。
だから人は、
自由そのものを喜ぶだけではなく、
そこから逃げたくもなるのです。
これが「自由からの逃走」です。
人はどうやって自由から逃げるのか
フロムは、
人が自由の不安から逃れるための典型的なあり方
をいくつか示しています。
大きく言えば、
自分で立つことをやめる
ということです。
その形はいくつかあります。
①権威への服従
もっとも分かりやすいのはこれです。
強いものに従う。
正解を与えてくれる誰かに自分を預ける。
先生が言ったから。
親がそう言うから。
世間がそうだから。
会社がそうだから。
あの人が正しいと言っているから。
こうして自分で決める重さから逃れます。
従っている限り、
自分で責任を持たなくて済むのです。
(教育論?政治?学校?)
(政治のことは政治でやってよ~)
(全部調べるの何て無理ぃ~)
これは安心を与えます。
しかし同時に、
自分自身であることを弱めてもいきます。
②他者を支配すること
服従だけではありません。
逆に、
人を支配することでも自由の不安
から逃げられます。
自分が不安で不安定だからこそ、
誰かをコントロールすることで安心を
得ようとする。
・相手を自分の思い通りにしたい。
・自分の枠の中に置いておきたい。
・自分の価値観に従わせたい。
これも結局は、
他者との本当の関係ではなく、
不安を埋めるための操作です。
これが
先生という立場の恐怖です。
私のいまの発言は「服従と不安」か?
③周囲への同調
現代的には、
これがかなり重要になるのでしょうか?
・みんなと同じでいる。
・浮かないようにする。
・自分の頭で考えるより、空気を読む。
・自分の望みより、周囲に合う自分を作る。
こうして人は、
一見すると自由な社会の中で、
実際には「みんなと同じ」であることに
安定を求めます。
フロムはこれをかなり深く見ています。
近代人は、
昔のような露骨な権威に従うだけではない。
むしろ、自発的に平均化されていく。
自分で選んでいるようで、
実は「選ばされやすい自分」になっていくのです。
ま。
これって欧米的にはそういう話になるのですが、
日本って実は唯一の共産主義成功例だなんて見方
もできますから、
日本頑張れって気はいたします。
フロムは、単に
逃げるな
と言っているわけではありません。
それでは精神論になります。
大事なのは、
孤立したまま自由であれ
ということではないのです。
むしろ「孤立」は自由ではないのです。
フロムが重視するのは、
・自発性
・愛
・創造性
・他者との成熟したつながり
です。
(うぉ~~~~でたぁ~~)
(校訓か?)
つまり、
誰かに従って安心するのでもなく、
誰かを支配して安心するのでもなく、
ただ周囲に合わせて薄まっていくのでもなく、
自分として立ちながら、
なお他者とつながること。
はいっ
これがかなり難しい。
そーなんです。
でも、
そこにしか本当の自由はない、
とフロムは考えます。
期限がある目標達成について、
不安と闘う時間もないことですから、
塾の機能として
「自由から逃走」させる機能もあるのです。
自由からの闘争は楽であります。
しかしそれは、
不安が消えたのではなく、
不安を引き受けることをやめただけです。
だから最終的に問われるのは、
不安があるかどうかではありません。
その不安から目をそらして生きるのか、
それとも引き受けて進むのか。
どちらを選ぶか。
それだけが、
最後に残る問い
なのだと思います。
どちらも正解な気はしてしまいますね。
私としては、
自分にコントロール出来る事だけを考え
くだらない日常に感謝をしつつ、
それでも時々は立ち止まって、
自分はどこへ逃げようとしているのか、
本当にそれでいいのかを、
少しだけ考えていたいと思います。
くだらない日常を過ごしながら
笑って過ごしてりゃ
我々一般ピーポーバンザイ
バンザイ
って感じです。