いつだったかの京都大学入試問題国語で、
「邪読について」
(=邪な読書方法)
と言う文章が出題されていた。
遊び心のTwitter
中学生に、
— 光庵 良仁(赤穂市の学習塾Willbe 塾長) (@WillbeAko2019) September 22, 2023
「先生、明日はスプリング8見学に参加してから、塾に自習に来ます」
と言われたので
「ふざけるな💢」と怒っておきました。
なんでテスト勉強に来るんだ😡
12時間ぐらいこもっておけよ💢
Twitterに遊び心で投下した件の中学生がSpring-8見学のお土産話を話してくれた。
それを聞きながらふと思い出したのが冒頭の「邪読について」です。
読書の在り方を述べた文章なのです。
幼いころの筆者の読書は、正しい読書ではなく「文章から乖離して想像に想像を積み重ねて膨張させていく読書」であったという。
そのような邪な読書の問題点は、内容を「忘れてしまう」ということにある。
だが「忘れてしまうことで精神の自立」のようなものがもたらされると言っていた(きまします。)
所謂大人が大人として必要な読書をするような体系的な知識や客観的な精神を身に着けるための「正しい読書」を盲信せず、
それぞれの人が、小学生/中学生/高校生といった年代で、「心の奥底から読みたい」と思う読み方に従って自分の個性にあった読書することが読書の本質であると述べていた(ような気がする)
一旦すべてを忘れてしまう。
しかし潜在的に「何か」が残る。
その「何か」が個性として残る。
その「個性」が自分を客観視させる。
その客観性が心の自立をもたらす。
また客観性が確立することで、自分以外の対象を客観視させる。
そのような論旨だったと思う。
生徒が持ってきてくれたパンフフレットを見ながら、
あーだこーだとテキトーなことを会話する。
きっと「邪読について」で述べられていたことは、こういう世界のことなのだろうと、ふとうれしくなるのです。
少し離れてみると、
映画「風立ちぬ」のシーンである。
主人公堀越二郎が、学校の先生にもらった英語の飛行機雑誌を読んだ直後の夢の中のシーンである。
これを例えば「邪な読書」と言うのだろう。
技術的な矛盾もあれば、
雑誌に書かれている内容とは生合性がないのかもしれない。
だけれども
堀越二郎は、雑誌をヒントに妄想を繰り返し、さらに妄想を繰り返す。
テスト前であろうと、
Spiring-8にいけば良い。
獅子舞に行けば良い😢
獅子舞の練習に行けばよい😢
と思ったり思わなかったり笑
さしずめ「邪な勉強」といったことろだろう。
でした。