近年の高校入試国語現代文でお馴染み吉見俊哉さんがディズニーランドについて話されている文章を読みました。
ふむふむ。
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ディズニーランドがなぜすごいのか?
端的にいうと、
ディズニーランドに入れば、外の世界が全く見えない。
だけではなく、
ディズニーランドの中、アトラクション?毎にも世界が演じ分けられている。
僕らは、まさに演劇で舞台の幕が変わるかのような気分で、さらに、もう登場人物になったかのような気分でディズニーランドを歩き回ります。
(ちなみに、私はかなりテンションを無理やり上げていかないと、ディズニーの中に溶け込めません笑)
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俯瞰する力。
言い換えると客観視する力。
他人を客観的に見る力。
自分を客観的に見る力。
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なるほど。
ディズニーランドにしろ、
ゲームにしろ、
3人称視点の世界が確かに減ってきたなと思います。
高い山に登って、
自分たちが住んでいる世界を眺めてみて、
自分と他者を分離してみる。
そういった世界は確かに少なくなっている。
訪れた人をディズニーの世界の登場人物かのように錯覚させる完璧なディズニーの世界。
夏休みのイベントといえば、体験型のアトラクションとイベントが多い(気がする)。
小学生や中学生がやっているゲームは、1人称視点が多かったりする。
そう言った世界も間違いなく楽しいですが、「客観視する」時間は間違いなくないのだろう。
吉見さんが「俯瞰する眼差しは外部への心を向ける象徴だ」と言ったようなことをおっしゃったが、なるほど、そうかもしれない。
尼子山に登って高雄の原風景を見てみる。
市役所の最上階から赤穂の街並みをまじまじと見て、物思いに耽る。
↑これに近いことは探さないと体験出来なくなっている気がする。
作られた世界の中の登場人物になることによって、自己完結してしまう。
そう言った感じは確かにあるように思える。
良いのか悪いのか分からないですが、
自分を見えてる世界から切り離して、その世界をまじまじと見てみる。
そういう経験は意識的に行わないと、できない世の中だなと確かに思います。
自分と見えてるものを切り離して相対化してみる。
ふむ。
そう言ったことを映画の授業では出来そうだ。
人はこんなにも「自分のルーツ」について苦しむものなのかと。
どんな物語も基本的には、
「自分のルーツ」についての葛藤
は描かれている。
自然と「自分」に向き合うことを促せそうな気がいたします。